私のスローなライフ

 昨年の健康診断で大腸に癌がみつかって10月に手術して2週間ほど入院しました。執刀医の先生によれば悪いところを20cm程切除して後つないでおいたので心配しないで良いとのことでした。医者にすれば今頃ステージ1の癌など大した病気ではないのでしょう簡単におっしゃってくださるのですが、患者とすれば食事は取れないし痛いし3日目くらいからやっと水が飲めるくらいで点滴しながらベッドでじっとしているのも結構つらいものです。このくらいの手術でも大変なのに胃袋を全摘した人などは毎日拷問のような生活を強いられたのではなかろうかと想像されます。日頃の不摂生がこうじて癌になったのであればまあ自業自得というものですが一人ベッド寝ているとあれこれ考える時間ができてたまには病気するのも心身のデドックスになって良い機会だったのかもしれません。
 この原稿を書いている時テレビで阪神淡路大震災のニュースが放送されていました。30年前のことですがいまだに鮮明に覚えています。地震があって3日目に現地調査のためJR住吉駅まで行って、そこから先は電車が止まっているので歩いて2時間かけて三の宮まで行くと変わり果てた三の宮の街並が見えてきました。80年前日本が太平洋戦争で空襲を受けたときはたぶんこんな感じだったのでしょう。1月17日に地震があって応急仮設住宅の工事が完了したのはその年の8月12日でした。約1万世帯、労働者延20万人のプロジェクトでした。終盤になると睡眠不足で意識朦朧、過労で小便に血が混じってきます。その頃入社した工事マンはいきなり大変な苦労をされたわけですが、彼らが今は各事業所の工事現場の責任者となって活躍している話を聞くと大変嬉しく思います。年末に石川県の珠洲市の方と食事する機会があって私が前に働いていた会社が応急仮設住宅のメーカーですと申しあげるとすごく感謝していただきました。能登半島は陸の孤島、悪条件の中、今回の工事に携さわれた関係者の皆さんは大変なご苦労されていることは想像に難くありません。本当にお疲れ様です。
 応急仮設住宅の工事現場はある種の戦争状態になります、戦争で戦略、戦術を語るのは2流の軍人であって1流の軍人は兵站を語るといいます。日本は太平洋戦争でアメリカに兵站路をことごとく遮断されて負けました。兵站の要点は、弾薬、食糧その他必要な物資を必要な時に必要な場所に必要な量送るということです。近いうちに南海トラフ地震がおきるといわれています。職人不足、物不足の時代、当社の社会的使命として政府を巻き込んで今から準備してほしいものです。
 週に1、2回は近くのバーで知り合いと飲んでいます。いろんなジャンルの方がいらっしゃって面白い話を聞かせてもらえます。そこの女性マスターの母方の実家が広島の忠海町というところにあって、そこから船で少し行くとウサギ島で有名になった大久野島があります。この島は太平洋戦争時毒ガスの研究をしていました。当然国家機密ですから当時は地図にも載っていませんし何を研究しているのかもだれも知らされていません。彼女の大叔父にあたる村上初一さんは当時そこの毒ガス工場で働いていらして戦後毒ガス記念館の初代館長になられた方らしいです。またF医師の叔父さんは満州で731部隊の関係者の方で中国人捕虜を連れてきて人体実験をしていたとか、M氏のお父さんはガダルカナルから命からがら生還してM氏が生まれたとか・・・話題に事欠くことはありません。
 私は広島支店で都合8年ぐらい勤務しておりましたがその間、原爆の話をすることは一度もありませんでした。あまりにもつらく悲しく忌まわしい経験は誰しも忘れ去りたいものです。もしその話を聞きたいのならその人の気持ちになる覚悟が無くては聞くことはできません。今回広島の被爆団体がノーベル平和賞を受賞されましたが今世界の大国が核を片手に覇権争いに躍起になっています。さながら大戦まえの結束主義、独裁政治がまかり通る時代のようです。日本もそのうち巻きこまれる日が来ることが懸念されます。
 最後に名張市に「而今」という日本酒があります。「しこうしていま」とは今を精一杯生きるという意味らしいです。「今日よりいい明日は来ない」という思いで取り留めもなく毎日を過ごしている今日この頃です。

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【私のスローなライフ】2018年 1月 〜 2024年 掲載分